三寶山 眞華院 不器用だけど心があたたまる東北の片隅にあるちいさな日蓮宗のお寺    TOPページへ


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えんの下の支えでありたい

寺のだいこくさん(かない)からひとこと
お寺に嫁いで12年ほど経ちました。二児(小学生)の母です。

日頃心がけていること
お寺に来られる方々には親近感を持って頂ける様、接したいと思っています。
敷居が高く思っていらっしゃる方も多いので、「何も分からなくても大丈夫。」とまずは安心してもらいます。
相談しに来られた方の目線で、お話を傾聴する(タダの聞くではありませんヨ)よう努めたいと思っております。

寺の嫁になった経緯
東京に住んでいた頃、ある事で迷いが有り、知人の紹介で、女性霊能者を訪ねました。真っ先に「あなたの周りに沢山の無縁仏さんがいる。供養してあげなさい。」と言われてしまいました。
相談事はそこそこに、供養をどのようにすればよいのか全く分からない私に、このお寺を紹介してくださいました。
紹介してくださった条件として、
 1 私の親が住んでいる(新潟)近くの寺であること。
 2 檀家さん以外の方にも親身なお寺(信者寺)
その方が法華経を信仰していらしたことも大きな要因だったと思います。
その後、盆・彼岸にお塔婆をあげて供養して頂き、お参りするうちにご縁ができ、嫁に入ることとなりました。
わたしが思う日蓮宗(信仰)の良いところ
私は分家(核家族)・新興住宅地(東京町田)という、信仰とは全く無縁な環境で育ちました。ですから自我が芽生えた頃には、何が起こっても自分の責任。良いことは自分の力で勝ち取ったもの。悪いことは自分の努力不足。運が悪かった。と割り切っていました。神・仏の存在など意識の中に全く有りませんでした。食べ物を食べることは自分で稼いだお金で買って食べている。そこに自然(神)やつくっている方々、その物の命に対する感謝の気持ちなど持てませんでした。

私の場合、結婚により、本格的な信仰が始まったわけですが、謙虚な気持ちを試みますと自分の力だけでは生きてはいないことを思い知らされる毎日となっていきました。独身の頃には全く信じられなかった、”お手配やご加護”を実感させてもらうことも多々有り、有り難く思っています。

間違ってしまいがちの御利益信仰ではない、自分の生き方そのものが信仰とかけ離れたものにならないよう、自分を律するひとつのよりどころとして、私は仏・神を拝みます。決して頼るとかではなく(お願いの時もありますが)、自分と向き合うのです。いつも見られていることを意識するのです。(そうありたいと努力します)

日蓮宗(眞華院)はご祈祷をすることから、仏様はもとより神様も大切にしています。